2012年6月2日土曜日

野の花便り ~初夏~


野の花便り ~初夏~

SHOKA

 ~ 初夏 ~

日本の初夏は白い花の季節と呼んでよいかもしれません。。
この花綵列島に自生する1000余種もの木々のほぼ四分の一が白系統の花をつけますが、そのほとんどがこの季節を待って咲き始めるのです。
日毎に深まる緑の中で、あるものは吹き渡る薫風に踊りながら、人目を引く鮮やかさで咲き、あるものは五月雨にそぼぬれて、煙るように咲いています。
もちろん、この白い花を引き立てるように、白いウエディングドレスのコサージュのように、数は少ないながらも黄や赤の花たちも咲いてくれるのもこの季節です。

東海地方の野山に咲くそんな花たちをご覧ください。

追加: 
11/05/02 カシワ  11/05/06  オニグルミ  11/05/12  タチシオデ
11/05/12 スイカズラ  11/05/16 コバンソウ  11/05/19 ヤマボウシの変り花
11/05/23 カズノコグサ  11/05/26  コメツブツメクサ  11/05/29  ホオズキ
11/06/02 ヤマウルシ  11/06/06 ヤマザクラ  11/06/09 オオバヤシャブシ
11/06/17  ウツギの実   11/06/21  ヒメジョオン  11/06/26  バイカモ
12/05/03  ムシクサ  12/05/10  ニシキギ  12/05/19 スダジイ
12/05/29  カモガヤ
 

May 1、 2006: ウワミズザクラ

  藤原南家の系譜と伝えられる遠江の国人横地氏が室町時代に築いた山城の跡を草友と歩いた。
 深く侵食された暗い谷間には赤い蕾をつけたハナミョウガが茂り、露出してしっとりと濡れて光る掛川層の裾にはオオバノハチジョウシダやシケチシダなどのシダ類が多く、尾根筋の草むらにではハルリンドウやキンランが花の盛りであった。
 一方、木々の花はと見れば、ヤマザクラはすでに散り終わり、クロバイやノイバラの開花にはいささか間があるこの時期、ウワミズザクラの白い花が新緑の中では人目を引く。
 ウワミズザクラは北海道の石狩平野から熊本県までの山地に分布し、日当たりと水分条件の良い谷の斜面などに多い。『中国高等植物図鑑』には四川省や江西省などにも分布するとあるが、掲載され� ��いる図はイヌザクラのようだ。
 材が硬く木理が密で美しいため建材や彫刻に利用される。花の終わったあと、実が未だ緑色の内に果穂のまま塩漬けにして食べることもあるという。
 ちょっと変わった名前だが、上溝桜(ウワミゾザクラ)の転訛だという。その由来は古代に亀甲占いをするとき、この材の上に溝を彫ったことにあるとの説である。また、鹿の骨を焼いて表面に現れる割れ目で吉凶を占う風習があったが、この骨を焼くのに使ったので占溝桜と呼んだものの転訛だともいう。
 遠州地方にはクソザクラとかヘッピリザクラという里呼び名があるが、これは枝を折ったり幹を切ったりするときに出る悪臭に由来する。奥秩父の山里、栃本にはツビヤキという名があり、焚き木にするとぱちぱち弾けて火の粉を飛� �して行儀の悪い女衆を狙い撃ちするからだという。山にこもって働く若い男衆の妄想であろう。


May 1、 2010: ヘビイチゴ  Duchesnea chrysantha (Zoll. et Mor.) Miq.

                            ふるさとの沼のにほひや蛇苺     水原秋桜子

 ゴールデンウイークが始まった。五月晴れの好日に、高速道も新幹線も空路も、故郷や観光地に向かう親子たちで賑わっている。誰もが明るく屈託なく笑い、話し合っている。これからもずっとこんな笑顔が見られる日本であってほしいとつくづく思った。
 「待っているおじいちゃんおばあちゃんと楽しく遊ぶの!」と弾んだ声で答えていたオチビさん、田舎の野道の、小川のほとりに這っているヘビイチゴも見つけてくださいね。
 ヘビイチゴ(蛇苺)という名はずいぶん昔から使われていたようで、平安時代の912年頃に著された『本草和名』には漢名の蛇苺汁の和名は"倍美以知古"とある。日のよ く当たる蛇が昼寝をしていそうな畦道や農道の際に這い広がっていることが多いためこんな名がついたのだろうか。クチナワイチゴともいう。クチナワはむろん蛇である。ヘビノマクラという里呼び名もあるが、これは丸くて赤い実(肥大した花托とその上にたくさんの瘤のある赤いそう果を乗せたもの)を枕に見立てたのだろう。
 花も実もよく見ればなかなか可愛いのだが、名のせいで嫌われて、清少納言は『枕草子』の153段ー名おそろしきものなかの一つに"くちなはいちご"を挙げている。遠州には"どくいちご"という里呼び名があり、これも蛇からの連想だろうが、毒があるわけではなく食べられる。だが、美味しいものではない。
 近縁種に花がそっくりのヤブヘビイチゴがあるが、日陰に生えることやそう果の 形が違っているので区別できる。

                             蛇苺あたりの草のかげは濃き     原田種茅


May 2、 2006:  ヒメコウゾ


雄花の集まり ウニのような雌花の集まり

    楮さく花のゆかりや国栖の里      鳥波
 
 吉野川の支流の高見川に沿った国栖(くず)の里のような古からの和紙作りとはほとんど縁のなかった遠州の地ではあるが、古代にはその繊維を縄に編んだり紙の原料にしたと考えられるヒメコウゾはあちこちの藪で目にすることができる。だが、江戸時代の製紙産業を支えたといわれるコウゾ(楮)には出合ったことがない。

 典型的なコウゾは雌雄異株で雄花序は長楕円形で、雌雄同株で球形の雄花序をつけるヒメコウゾとの違いははっきりしている。両者が別物だということはすでに小野蘭山を始めとする江戸時代の本草学者には気付かれていて、ヒメコウゾからは良い繊維が取れないことも認識されていた。一方、コウゾについては、元禄10年(1697)に刊行� ��れた『農業全書』に見るように10種類以上の品種が識別されていた。
 これらのコウゾはすべて栽培管理下におかれていたことからも分かるように、人間によって選抜されたものに違いない。しかしその栽培がいつの時代に始まったのかは不明であった。
 その後、コウゾの形態変異と稔性の研究を通して雑種起源説が浮上した。つまり、コウゾは日本に自生していたヒメコウゾと繊維源植物として大陸から移入されたカジノキとの交雑によって生まれたものだというのである。カジノキは藤原俊成の短歌などから知れるように平安時代にはすでに広く栽培されていた。人為的に交配した可能性も捨てきれないが、おそらく有史前からその繊維を利用していた人里近くにも生えるヒメコウゾと新来のカジノキの間に自然交雑が起こ� �、その中からコウゾが選抜され栽培されるようになったのであろう。

 ムラサキウニのような形をした雌花の集まりは梅雨の明ける前に熟して赤い小さな桑の実のようになる。この実を見ると、草木の名を覚え始めた高校時代、先輩にしてやられたことを新入生にも経験させたことを思い出す。
 「この木はコウゾ(当時愛用していた牧野図鑑ではヒメコウゾを区別していなかった)というのだ。この赤い実は甘くて初恋の味がするぞ」
 最近の口の肥えた少年はいざ知らず、当時の純真な高校生は迷わず手を伸ばし口に運んだ。するとその直後、
 「ひどいな~」 とほとんどのものが恨めしそうに顔をしかめる。
 それもそのはずで、ウニの刺のようだった長い花柱が乾いて、気がつかないほどに小さく縮んだ状態 で赤い実に残っていて、そのため甘いことは甘いが、もぞもぞとした食感がいつまでも残るのである。
 なるほどな~、といった顔をした少年は、私がそうであったように、すでに初恋に敗れた経験者だったのだろう。


May 2、 2011: カシワ  Quecus dentata Thunb.
   初夏の葉広がしわの青きいろ
              見つゝ睫の青きをおぼゆ     金子薫園

 里桜も散り、日々木々の緑が濃くなって行く中で、ひとり褐変した大きな葉を身に纏い、病気で枯れてしまったのではと思わせるような佇まいだったカシワも、ふと気が付けば若葉姿に変身し、萌黄色の組みひものような雄花を揺らしていた。
 極東に広く分布するブナ科の高木だが、日本では遥かな古代から大きな葉を食器に代用していた。カシワという名も"炊葉(かしきは)"ないしは"食敷葉(けしきは)"に由来するものと言われている。
 緻密な材は船や樽作りなどに利用され、樹皮はタンニンを含むので皮なめしや染色に使われた。
 遠州地方では山地でカシワに出会うことは少ないが、東北� ��方まで行けば、発達したこの木の林を見ることができる。例えば、柳田国男は下北半島の猿が森から田名部に向かう途中の村境の峠から見た観景を、「・・・・、今一度振り返って東の浜を見た時には、こんな寂しい又美しい風景が、他にもあるだらうかと思ふやうであった。見渡す限りの槲(かしわ)の林に、僅かの村里などは埋れ尽くして居る。・・・・・・」と『雪国の春』に記し、大正13年10月26日に小岩井農場郊外の原野で道に迷って悪戦苦闘した宮沢賢治はカシワ林の中を彷徨い、「・・・・・柏林の中にゐると/まるで昔の西域のお寺へ行ったやうだ・・・・・」と『霜林幻想』に詠っている。

   柏の木ものものしくもむらがりて
               山中に見れば尊きごとし    佐藤� �太郎


May 3、2008:
    養老の滝で出会った花 ~ミヤマカタバミ、イワカガミ、ヤマアイ、タニギキョウ

 『草の友会』の皆さんと「養老の滝」の花々を愛でた。

 酒房の"養老の滝"には飲んだくれていた時代いくたびとなくお世話になったが、親孝行な樵の源丞内にまつわる孝子伝説で名高い、この岐阜と三重の県境に近い滝を訪れるのは初めてであった。奈良時代、元正天皇が酒の湧き出すこの滝の話を聞き行幸したころの佇まいはいまや思い浮かべることも難しくなるように良く整備された公園の行き止まりにその滝は落ちていた。滝のほとりの案内板を読むと、源丞内の孝行話に感動した元正天皇は年号を養老と改め、80歳以上の老人に位一階を授け、孝子節婦を表彰した、とある。医療費高騰に伴う経済的な痛みは老人といえども感じてもらわねば困る(自分たちは老人になってもけして痛みを感じることはない身分だが)と「� ��期高齢者医療制度」なるものを発足させた平成の為政者とは大違いである。

  断崖の中ほどには30mの高みからほとばしる飛沫に濡れて、今が盛りと輝くヤマブキが揺れていた。

  滝へ登る途中の自然観察路にはさまざまな季節の花があったが、以下はそのうちの4種である。


ミヤマカタバミ(Oxalis griffithii) イワカガミ(Schizocodon soldanelloides)


 清楚な白い花と柔らかな薄い緑の葉のミヤマカタバミ(Oxalis griffithii)は東北地方からヒマラヤまで分布している。帰宅して写真を整理しているうちに、ふと山菜として利用されているのではないかと思い調べたところ、さっと塩ゆでして
冷水でしめたものを芥子ドレッシングで食べたり生ハムそえるとよいということだった。
 木漏れ日のよくあたる岩場ではイワカガミ(Schizocodon soldanelloides)の桜色のイソギンチャクのような花が咲いていた。久しぶりの出会いでうれしくなった。舌をかみそうな学名だが、"細かく裂けたベル+小さな貨幣"という意味で花と葉の形を現したものである。和名は無論岩場に生える光沢のある葉を鏡に見立てたものである。宇都宮貞子さんの『春の草木』には妙高山の麓の平谷あたりではカミナリソウとかソラノバアサンノシリノゴイと呼ぶそうである。名前の由来を知りたいものである。



ヤマアイ(Mercurialis leiocarpa) タニギキョウ(Peracarpa carnosa var. circaeoides)

 数百年は経ているに違いない杉の巨木の根元にはヤマアイ(Mercurialis leiocarpa)が茂っていた。東海地方では比較的目にする機会が多いと聞いたが、私はこちらに来てから始めて出合ったような気がする。
 雌雄異株のトウダイグサ科の多年草で、写真の株は雄株である。近くには雌株もあってころりとした無毛で緑色の実がついていた。中国から蓼藍が渡来する以前の上代には藍染といえばこの草を染料としていた。現代でも皇室の神事新嘗祭に着ける小忌衣はこの草で染めるという。

 山藍の小忌の衣手月さえて雲ゐの庭にいづる諸人     冷清太政大臣

 何処からともなく滲みだしてくる清水にしっとりと潤った岸壁にはタニギキョウ(Peracarpa carnosa var. circaeoides)が咲いていた。やわやわとした小さな草で目敏い人でないとなかなか気がつかないような存在である。
 しかし植物学的は大変面白い種である。東アジアから台湾、フィリッピン、ニューギニアに点々と数100kmから3000kmの間隔で隔離分布していて、原(1947)は5変種に分類した。最近シカゴ自然史博物館のBarnesky,A.L. & Lammar,T.G.(1997)はこの隔離分布に興味を持ち26箇所のハーバリュウムに保管されている72の集団の200個体の38の形態を詳細に解析した。その結果、かれらの結論は長距離の隔離があるにもかかわらず、タニギキョウは細分できず1種とすべきもの、ということだった。
 いやはや種の問題は難しい。


May 3、 2012: ムシクサ Veronica peregurina L.
 八十八夜が過ぎ、にわかに初夏の気配が濃くなってくると、草の茂りも日ごとに深まる。

 さして広くもない庭ではあるが、アメリカフウロソウやヨモギやタチイヌノフグリやヒメコバンソウなどなどで埋まっていくのを放置もできず、屈みこんで草取りを始めたところ、直径が2mmにも満たない白い花をぽちぽちと咲かせた、やや肉質で草丈10cmほどの植物が目にとまった。歩いている目線ではまず気がつくことはないだろう。
 イヌノフグリなどと同属のムシクサであった。日が翳ればやはり仲間と同様に花を閉ざす。
 普通は湿り気の多い田や畑に生えるので、小砂利を敷いた庭先で見つけたのは意外であった。アジアからオセアジアに広く分布しているが、日本のものは史前帰化植物だと考えられている。

 � ��シクサという和名は果実にゾウムシの1種の幼虫が宿り、よく目立つ虫瘤ができることに由来するらしい。 抜き取らないで様子をみることにした。





May 6、 2010: マツ Pinus densiflora Sieb. et Zucc. + P. thunbergii Parlatore


 狂った千恵子は口をきかない/ただ尾長や千鳥と相圖する/防風林の岡つづき/いちめんの松の花粉は黄いろく流れ/五月晴れの風に九十九里の浜はけむる/・・・・・・

 松の花粉を浴びながら、いつまでも立ち尽くしていたのは、もう天然の向こうへ行ってしまった千恵子の、その後ろ姿を見つめつづける、高村光太郎であった。
 5月のマツは、青緑の針葉にかこまれた多数の黄色の雄花を花軸に沿って螺旋状に並べ、その軸が空に向かってすっと伸びた"松の翠"の先端に、数個の薄紅色の小さな雌花を咲かせる。
 このマツほど日本人の生活に深くかかわってきた植物は、あまりその例を見ない。
 古代の人々は白砂青松の世界ですなどりし、神々がこの常緑で精気あふれる香を放つ樹に天降り たまうのを待ったし、天平時代の平群氏郎女は「松の花花數にしもわが背子が思へらなくにもとな咲きつつ」と越中守大伴宿禰家持の愛を待ったのであった。
 マツを祭る風習はいまも各地に残る。祭られる神が年神である場合、その依代であるこの樹を山に伐りにゆくのが"松迎え"であり、こうして"門松"や"拝み松"が立てられる。また、『徒然草』にもあるように、鎌倉時代には「家にありたき木は松」といわれるようになり、それは"門冠り松"や"見越しの松"など、日本の庭園に欠かせぬ木となった。さらに、長寿・隆盛の象徴としてのマツは、俵屋宗達の描く「松図襖絵」に代表されるような"金屏と青松"の美意識を生みだしもした。
 いっぽう、"結び松"の習俗も古くからあり、絞首される運命にあった有 馬皇子が「盤代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む」と願ったように、万葉の時代はすでにおこなわれていた。
 松の花粉の流れる砂丘で、光太郎もまた、遠くへ去ってゆこうとする千恵子の心を、九十九里の浜の松が枝よ、しっかり結びとめてくれ、と祈っていたのかもしれない。

               松の花ちるべくなりて朝あつし春蝉のこゑしづかにそろふ     吉植庄亮
       

 普天間問題を載せた鳩山丸が案の定座礁した。どうも計画的座礁のように思える。日本列島に住む人々は、この荷をどの島に下ろすことも強硬に反対するから、米国さんが引き取ってくれと交渉を始めるのではないだろうか。そのかわり、日本は9条を廃棄して近隣とのバランスを保つため軍� ��強国の道を歩くからよろしく、そして日本国民もそのつもりで・・・・という方向に持ってゆきたいのではないだろうか。垂れ流される脳天気なバラエティー番組で笑わされているうちに、歴史が繰り返され始めたよう気がする。 



May 7、 2007:  イズハハコ
駿河湾から焼津の市街を越え、朝比奈川の流れに沿って吹き上がってくる薫風が無腸の鯉を泳がせている"玉露の里"でイズハハコに出合えた。

 南アメリカが原産地の帰化植物のアレチノギクやオオアレチノギクと同じキク科イズハハコ属(Coynza)の1種で、日本では関東地方以西の海辺に近い山地に自生しているが、中国から東南アジアを経てアフガニスタンあたりまで分布している。
 花が咲いていなければ痩せたハルシオンと間違えそうなひょろりとした草姿であるが、花そのものもまことにじみで、教えてもらわなければ気づかずに通り過ぎるところであった
 ところがこの植物は環境省レッドデータブックに絶滅危惧Ⅱ類の一つとして登録されている。
 美しい山草として乱獲の憂き目にあっているとは考� �にくいが、何がこの種を絶滅に向かわせているのだろう。
 それほど特殊な生育環境を要求しているようにも思えない。他種との競合があるのだろうか。


May 8、 2008: シラン (Bletilla striata)
   うしろ向き雀紫蘭の蔭に居り
        ややに射し入る朝日の光     北原白秋

 喉に痛みはまだ残るものの風邪の具合が少し良くなり、微熱も去ったようなので何日かぶりに朝の庭に出た。すっかり緑が濃くなり、ヤマボウシの苞も大分伸びて白くなり、蜥蜴が走り出した庭石の蔭ではシランが花の盛りになっていた。
 シランはかつてはこのあたりの丘陵ではどこに入っても目にすることができるほどありふれた存在だったが、宅地造成や茶畑の拡張で丘陵地が切り刻まれた近年では、運がよければ出合えるところまで減ってしまった。それでも性の強いランで、何とか生き残ってはいる。白花の個体も稀ではなく、JR東海の在来線の切通しの斜面一面に咲いていたのを見た記憶があるのだが、無論今では幻 である。
 話は替わるが、今日の朝刊を見ると、日本の国債が急落し始めたとあった。いまのところ外国資本が買っている額は大きくないようだが、700兆円も発行されている債券が紙くずになってしまう日が近づく足音を聞いたような気がした。


May 8、 2009: ツルウメモドキ Celastrus orbiculatus 

 数年前からアメリカで問題になっていた、原因が特定できていないミツバチの大量死が今年は日本でも起こり、果樹や野菜のハウス栽培農家が困惑している。
 そういわれてみると、庭の花にやってくるミツバチの姿をほとんどみかけない。ミツバチだけでなく訪花する昆虫そのもの総数が減っているように感じる。
 人類による環境汚染が昆虫たちの生存をも脅かしているのだろうか。それとも彼らは何事かを予感してどこかへ非難しているのだろうか。
 人類もまた次々と性質を変えるインフルエンザウイルスに右往左往している昨今である。
 家人は、子供の頃に細胞に取り付いて水疱瘡を発症させたヘルペスウイルスが暴れだしたための帯状疱疹に、今ベッドで苦しんでいる。運悪く唇と口腔をふくめた右� �顎部に水泡ができたため食事がとれず、点滴による栄養補給を続けている。痛みは想像を絶するほどらしい。
 一日も早く自力で食事ができるまでに回復することを願っている。


"スレートは、最初に国を下回る"
 このツルウメモドキの花を舐めにきたミツバチはどこから来てどこへ帰るのだろう。
 ニシキギ科のこのつる性の植物は北は南千島から南は沖縄にわたってこの長い花房のような日本列島の山地に自生している。樹皮や蔓の繊維が強いので物を縛るのに昔から利用されてきた。アイヌ語ではハイプンカルというが、これはこうした蔓の性質を表わしているそうだ。 

May 9、 2006:  カナメモチ
 お向かいのカナメモチの生垣に、真っ白な花が咲き始めた。
 昨年までと違って、薄く埃を被った赤い新葉が、少し乱雑に伸びるに任せてあるのは、寒さもやや和らぎ始めた春分の夜に奥様が倒れ入院され、それ以来ご主人がほとんど付ききりで看病されているせいであろう。花の咲いているうち退院できるようにと祈らずにはおれない。

 灰色に埃かゝれるかなめ垣
         うるほふ雨に矢来を通る   木下利玄

 カナメモチは東海地方から九州の山地にかけて自生するが、古代から庭木や生垣として植栽されていて、『枕草子』の40段にも"そばのき"の名で登場している。清少納言は桜も桃も散りはてた新緑の中で、まるで時はずれの紅葉のような赤い新葉がめだつところが珍しいという。"そばのき� ��は白い花が"蕎麦の花"に似ているが故の名であろう。
 材質は非常に硬く、昔は農機具などに加工されていたという。カナメは扇の要にしたからとか。モチは葉がモチノキのそれと似ているからである。


May 10、 2007:  アゼナルコ

 最低気温が14℃前後となり、一昨日から家人との早朝の散歩を始めた。
 秋の野と違って、初夏の朝の野では露を見ることがない。夜間の冷え込みが緩やかになった証しである。
 川沿いの土手にはスイバのレンガ色の花穂とアカツメクサの柔らかな桃色花とノアザミのしゃきっとした赤い花が目立つ。しかし、その気になって視線を走らせれば、草の茂みでひそやかに咲く花たちも少なくないことがわかる。
 今日であったのはその一つ、アゼナルコであった。
 本州以南に分布し、中国から東南アジアでも目にすることができる。
 和名は畦道に多く鳴子を連想させる草姿に因んだものだが、そのように説明されても、"畦"?"鳴子"?と困ったような顔になる若者が多いのが昨今である。
 畦や鳴� ��という言葉を聴いただけで、私などは時の彼方に過ぎ去った懐かしい風景を思い浮かべることができるが、そんなものを目にしたことない彼らにはまさに異次元の世界の話であろう。


May 10、 2012: ニシキギ Euonymus alatum (Thunb.) Sieb.
  錦木のこまかき花の散りしより
     しどろに春は老いにけるかな  宮 柊二

 晩春と初夏が行ったり来たりの連休が終わった。リコリスの葉も茶色に変わり溶け始めている。
 牛渕川の源流に近い牧の原台地の西面の山道を歩いていると、満開のニシキギを見つけた。黒い土の上には、その小さな薄緑色の花が散り敷いていた。
 カメラを寄せ、レンズが葉に触れると、4弁の花はほろほろと零れた。
 極東アジアの山地に広く分布している落葉低木で、花は目立たないが秋に真赤に紅葉する葉のみごとさと古い茎に張り出してくるコルク質の翼の面白さのため室町時代までにはすでに庭園で植栽されていた。もっとも中国では枝にできる翼の形が矛に似ているので、古代から"衛矛"の名で呼ばれ、呪術に使われていたというから、日本でも奈良時代にはすでに注目されていたのかもしれない。< br/> 『枕草子』の「花の木ならぬは」にあげられている"たそばの木"がニシキギだという説もあるが、これはカナメモチだという人の方が多い。


May 11、 2010: タブノキ Machilus thunbergii Sieb. et Zucc.


              たぶの木のふる木の杜に入りかねて木の間あかるきかそけさを見つ     釈 迢空

 掛川から大須賀に抜ける林道では、ノダフジが樹上で揺れマルバウツギの雪のように白い花が咲き零れていた。
 昭和53年に竣工した小笠山トンネル出て、すぐ右手の、急斜面に茂る林の中の小道を登り尾根に出ると、ソヨゴには黄緑の、タイミンタチバナには赤銅色の新芽が吹き、[危険]表示がある痩せ尾根のから見下ろす谷間ではタブノキの古木が真っ赤な花と見まがう新葉を展開していた。
 タブノキは北海道を除く日本列島の沿海部と韓半島南部、中国南部に分布するクスノキ科の喬木である。高みに咲いてなかなか見る機会はないが、地味だが味のある薄緑の花で12本のオシベ がある。
 中南米原産のアボカドに近縁で、研究者によってはアジアの熱帯・亜熱帯が分布の中心となっているタブノキの仲間をアボカド属(Persea) に含める。
 有用樹で、材は建材や舟材などに、樹皮は潰して練ると粘るので線香を作るときの繋ぎにしたり、タンニンが多いので染料にした。中国では紅楠と呼び、樹皮は筋肉痛に薬用し、種子を搾って香油や潤滑油を採った。
 和名の由来については諸説があるが、倉田悟は、大木に育ち古来樹霊信仰の対象となっているので"霊(たま)"が"たも"を経て"タブ"となったと考え、中田薫や深津正は丸木舟を意味する"ton-bai"という韓国語が"ta-bu"となったのだろうという。いずれが正鵠を射ているのだろう。タマグス、タマツバキ、タマノキ、タモ、タモノキなどの里呼び名が各地に残ることを考えると、私は倉田説に手を挙げたくなるのだが・・・・・。 

 真偽のほどは私には判断の下しようもないが、北 朝鮮沿岸近くのベンニョン島(Baekryong Isl.)で爆沈した「天安」についての面白い話が http://tanakanews.com/100507korea.htm にあった。米国の原潜も近くに沈没しているという。韓国軍ー米軍との間に起こった深刻な事故だという。このような報道に日本の政府やマスコミがなんのコメントもしないのは、アメリカから規制されているからだろうか。



May 13、 2011:  スイカズラ  Lonicera japonica Thunb.
 さみだれの雨間風なきうす日でり
         香にたちて咲く忍冬の花    岡 麓

 台風1号は熱帯低気圧となったが、発達した不連続線が太平洋上に停滞したため夜来30mmほども降ったが、明け方には止んで、眩しいほどの初夏の日が射した。
 庭に出ると薄紫の蕾の上がったセンダンの枝に絡んだスイカズラの蔓に、一列に並んだ小さな白い踊り子たちのような花が咲いていた。雨上がりで気温も低いせいだろう、あのむせるような甘い香はなく、顔を寄せるとかすかにレモンに似た爽やかな香がした。
 中国では忍冬と呼び、古代から解熱消炎の効のある薬木として利用していたが、日本では、平安時代の『本草和名』に和名"須比加都良"とあるように、薬というよりは花筒の底に溜まった蜜の甘さ に惹かれていたようだ。
 時は流れ、幕末に来日したスウェーデン人のチュンベリーは、長崎でこのスイカズラに出合い、Lonicera japonica と命名して、その花姿と香のすばらしさをヨーロッパへ紹介した。

 それ以後世界各地に移入されたものの、近年ではその種子と地下茎による旺盛な繁殖力のせいで駆除困難な強害草にランクされるようになった。ことに北米での拡散速度はすざまじく、1970年当時はマサチューセッツ州からテキサス州までの東部地域に限られていたが、2000年にはカリフォルニア州にまで広がっている。
        
 今日、浜岡原発の4号機の炉心に制御棒が挿入され、原子の火が消えた。明日は5号機も止まるはずだ。使用済み燃料棒が冷却プールに残る問題はあるが、それでも福島の惨劇が繰り返される恐れがなくなったことは喜ばしい。今後は原発関連で生計を立てていた人々の救済が速やかにおこなわれなければならない。政治家たちの腕の見せ所だろう。


May 15、 2006:  キリ
 遅れていた茶摘もどうやら峠を越したようだ。連休のころには未だ萌黄色だった列車の窓の向こうに広がる茶畑の畝は少し縮んで濃緑色に変わっている。そしてのどかに鯉幟が泳ぐ農家の裏山では、キリの大木が淡紫の花房で飾られ始めていた。

   桐の花あまきかをりぞただよへる
            五月のあさの畑のよろしき       佐佐木信綱

 箪笥を作るのに最適な材となるキリは、かつてはこのあたりでも女の子が生まれると嫁入りに備えて家々で植えて育てたものだったが、今では用無しになって、それでも季節が来れば艶やかな花を咲かせて目を楽しませてくれている。
 奈良時代以前に中国から渡来したものと考えられていて、平安時代には内裏の庭にも植えられて鑑賞の対象となっていた� ��清少納言もこの木の花や葉の姿が好きだったようで、「紫に咲いた花もすばらしいが、おおらかに広がる大きな葉も飛びぬけている」というような意味のことを書いている。


May 15、 2009: ヒナギキョウ Wahlenbergia marginata
 田植えがすんだばかりらしい、豊かに水をたたえた田の中を抜ける道の草むらに、直径が1cmにも満たない、淡い青紫の花が咲いていた。
 まだ完治というわけにはいかないが、退院するという家人を迎えに行く途中で出会ったヒナギキョウである。

 田を渡る皐月の風やヒナギキョウ
        かすかに揺れつ空色に染む  静

 関東以南の原野や低山の陽光の地で時折り見かけるキキョウ科の小さな多年草で、花が咲いていなければその存在に気付く人とていないであろう。
 そんな草ではあるが、中国では華南から雲南地方に分布していて、美花参とか娃児菜と呼ばれその根が薬用されている。薬効は鎮静や血圧降下作用だという。皮膚疾患にも処方するともある。

 アジアだけでなくインドシナ� ��島からニュージーランドにまで分布している。 


May 16、 2007:  ホナガタツナミ ?
 今日の散歩道で見つけたタツナミソウ(左)は数日前に出会った典型的なタツナミソウ(右)とは別物のように思えた。
 帰宅して図鑑類を繰ってみたがどうもはっきりしない。
 しかしあえて決めるとすれば福島県以南に分布しているというホナガタツナミということになるように思うのだが、さてどうだろうか。

 なにはともあれ、私が知ったのはこの属の分類の難しさであった。

   何をたのしといふにもあらず
        甥とふたり
    たつなみ草をふく風の中 
       
        生方たつゑ



May 16、 2011: コバンソウ Briza maxima L.
 そよげるは生家の跡の小判草   清崎敏郎

 更地となって久しい街中の小さな空き地に、人目を引くハルシオンに負けじとコバンソウが茂っていた。
 あるかなしかの風が渡ると、きらきら光る細い釣糸のような花序柄の先に下がる、黄緑色の、小判を連想させる小花の集まりが、かすかに震えた。
 いや、空気の流れではなく、間もなく起こるという東海地震の前触れの、人間には感知し得ない、かすかな地殻の蠢きに震えたのだろうか。
 地中海沿岸域が原産地といわれる一年性の耕地雑草で、いまでは世界中に帰化している。風情のある植物ゆえ、日本には明治時代に観賞目的で導入されたが、土壌を選ばず乾燥にも強いので、間もなく逸出し、いまでは東北地方以南で目にすることができる。

 奥入瀬の風� �揺らすよ小判草  石川星水女

 俵麦、貝殻草、大鈴萱などのなもあるが、いずれも花穂の形に因むものである。




May 19、 2009: ヤマボウシ Benthamidia japonica

                          雨去って白眉の花の山法師     米谷静二

 太平洋から列島を斜に横切って日本海にまで延びた不連続線が、時折りの驟雨をともなって通り抜けていった。
 明ければさわやかな五月晴れである。
 庭に出て大きく育った栴檀の下に立つと、涼やかな香りに包まれる。続いた雨に紫は褪めたが、花房はまだしっかりとしていた。そして、その栴檀からの木漏れ日の中で、米谷静二が白眉とみたヤマボウシの純白の総苞が輝いていた。
 ヤマボウシはミズキ科の高木で本州以南と韓国に分布しているが、これがヒマラヤヤマボウシ(B. capitata)に近縁の種だと最初に認識して、japonica(日本の)という種小名で記載したのはシーボルトであった。
 今では街路樹や庭園木としてあちこちに植栽されているが、元来は箱根山地などの低山帯に自生しているものである。
 江戸参府を果たしたシーボルトが長崎への帰路に箱根を越えたのがちょうどこの季節、5月21日だったから、さぞやこの美しい花を楽しんだことだろうと思ったが、なぜか目にしていない。箱根の町を発ったのが午後遅く、おそらくヤマボウシが咲いているあたりを通ったときは、すでにうす暗くなっていて気が付かなかったのであろか。あるいは、江戸時代の5月はまだ気温も低く、開花が始まっていなかったのかもしれない。彼は6月8日から13日まで逗留した大阪で手に入れた幼木を出島 に移植したが、うまく育たなかったと『日本植物誌』に書いている。

                            霧深く恥らふごとく山法師       菖蒲あや

 明日からはまた雨模様になるらしい。 
 昨年のこの季節、訪れた川根の里では、霧雨の中、谷向こうの山肌には、白い小鳥の群れのようにヤマボウシが咲いていた。


May 19、 2011: ヤマボウシの変り花
              Abnormal flowers of Benthamidia japonica (Sieb. et Zucc.) Hara


                           朝鳥に花ちりばめつ山法師    水原秋櫻子

 区画整理の終わった小さな町にできた、直線で200mほどの山法師通りのヤマボウシが咲き始めた。
 その植栽された木々に風変わりな花が咲いていることに、今朝の散歩の途中で気がついた。
 本来は4弁の総苞が6枚のものと5枚のものである。
 花序形成過程の初期に遺伝子発現のタイミングが狂ったのであろうが、その原因は何だったのだろう。ブロック舗装した歩道に沿って植栽されているのに、市役所も近くの住民も枯れれば植え替えればよいと思っているのか、水枯れに気を使う気配がないので、そのあたりが変異の起因かもしれない。あるいは、絶え間なく行き交う自動車の排ガ スに含まれる化学物質が作用しているのだろうか。
 まさか、20kmほど南に位置する浜岡原発から漏れる放射性物質のせいということはないだろうが・・・・。

 その浜岡原発では、停止作業に入った5号機の腹水機の配管が破れて海水が400トンも混入し、そのうちの5トンが圧力容器内に入ってしまったそうだ。その結果、幸か不幸か、中電は廃炉にする必要はないといっているが、5号機を再稼動させることはできなくなったらしい。しかし、地震や津波がきたわけでもないのに、このての事故がいとも簡単に起こってしまうとは。自民政権が声高に喧伝していた絶対安全はまったくの虚言であったということだ。
                            旅は日を急がぬごとく山法師   � �森 澄雄

 いつまでも薫風を楽しめる初夏が巡り来る世界であって欲しいものだ。




 神我に預け賜えど障害児我ら果てなば返すすべ無し    野原 武


May 21、 2009:  ヤマグワ Morus australis

摘みとりて掌の上に見れば桑の実の
       熟れし熟れざるかゞやきにけり  川崎杜外

 庭の片隅で小鳥の落し物から芽生えたヤマグワがたくさん実をつけて、懐かしいあの濃黒紫色に染まり始めている。
 桑の分類はなかなか難しいようで、手元の図鑑や解説書はそれぞれで見解が異なっている。
 ここではとりあえず保育社の『日本の野生植物』に準拠して、葉の切れ込みが多いこと、柱頭の切れ込み方、毛の生え方とでヤマグワとしたが、正直なところ自信がもてない。

生あたたかき桑の実はむと桑畑に
       幼き頃はよく遊びけり     佐藤佐太郎

 熟した実を頬張ると、歯も唇も紫色に染まって、その顔が面白いと、友達同士で笑い転げたことが今も忘れられない。


May 22、 2011: カズノコグサ Backmannia syzigachne (Steud.) Fern.

 まだ田植えの始まっていない、ひょっとしたら今年から休耕田となるかも知れない田の畦道に生えているカズノコグサを撮ろうと近寄ると、ケリ、ケケッリッと絶叫してケリが飛び立ち私の頭上を旋回しながら激しく鳴き続けた。
 御前崎周辺の自然の保護に熱心な、日本鳥類学会特別会員で、里山を歩く会にも参加されている宮本勝海さんの『小笠山・掛川・御前崎周辺の植物・昆虫・野鳥』によると、水田の中に営巣するケリは子育て中には偽傷行動と激しい威嚇行動をするそうだが、今朝のケリも子育て中だったのだろう。
 ところで、イネ科の植物は目立つ花や特徴のある葉を持つものが少なく、なかなか名前が覚えられないものだが、このカズノコグサだけは一度憶えれば迷うことがない。花穂の形が、正月の御 節につきものの数の子によく似ているからである。
 アジアの暖温帯に広く分布するが、日本では水田周辺でしか目にすることがないので、おそらく稲作にともなって渡来した史前帰化植物の一つなのだろう。多少の耐塩性があり、沿海の湿地などに茂ることもある。
 近年は、稲作を導入したカリフォルニア州などには帰化している。


May 23、 2009: ヒトツバタゴ Chionanthus retusa

 緑の葉群の中に、白い雲がたなびいたような花が咲いていた。繊細な花びらが身を寄せ合って薫風に揺れていた。

名を問えばなんじゃもんじゃの木ぞという
      白き花咲き目につく一本    若山貴志子

 "なんじゃもんじゃ"と呼ばれる木にはいろいろあって、貴志子の見た"なんじゃもんじゃ"がこのヒトツバタゴであったか否かはわからないが、目につく一本であることは確かである。
 ヒトツバタゴに近縁の植物はアジアだけでなく北米東北部にも1種(C. virginicus)が知られているので、地質時代には広範囲に分布していたと考えられるが、現在の本州では長野・岐阜・愛知県の一部にかろうじて自生しているに過ぎない。状況は韓国でも中国でも似たようなものらしい。
 臨終の床にある牧水に筆先に浸した酒を含ませたと伝えられる貴志子は、この純白の花をどんな思いで見つめていたのであろう。


May 25、 2009: トチノキ Aesculus turbinata

しずかなる若葉のひまに立房の
     橡の花さきて心つつまし   佐藤佐太郎

 菰張山や大日山を水源とし、深い谷を刻んで下る吉川上流の山里の、すでに廃校になって久しい小学校の校庭の片隅に、大きな年経たトチノキがあった。
 花の盛りで、天狗の葉団扇のようなゆったりとした浅緑色の掌状葉に支えられるように、たくさんの乳白色の花穂が青い空に向かって立ち上がっていた。花びらに小さな赤い斑点をちりばめた小花からは、白いおしべがつんつんと突き出している。
 北海道南部から九州にかけての低山のいわゆる山奥の谷沿いで出合えるが、大きな黒い栗に似た種子が古代から救荒食として利用されてきたことでよく知られる高木で、北上山地には「橡の木2,3本ない家には嫁に行� �な」という口碑が残るほどである。 また、叩いて潰した実を焼酎につけたものは、打身や内出血の治療薬でもあったという。

  動きゆく人群の中橡の実に
     一人かがめば深山さびつも   土屋文明


May 26、 2009: ジャケツイバラ Caesalpinia decapetala var. japonica

 吉川の渓流を挟んだ東西の険しい山肌に江戸時代から営まれてきた亀久保の村落には、国の重要文化財に指定されている友田家がある。
 この18世紀前半に建てられた「片喰い違い型」の古民家を見学に行く途中、沢のほとりで咲き始めたジャケツイバラに出合えた。日本に自生するマメ科の木本植物の中では随一の美形である、と思うのは私だけであろうか。南国産のあの艶やかなサンバガールのようなオオゴチョウと同属ではあるが、こちらは清楚な浴衣姿の娘さんを連想させる。
 しかし、その花姿から想像できない性質を隠している。それは恐ろしいほどに鋭い鉤形の棘である。美しい花に惹かれて不用意にジャケツイバラの茂みに踏み込もうものなら、怪我をせずに抜け出すのは難しい。棘に捕らえられてもがい ている小鳥を見たこともある。サルカケイゲ、シシモドシなどの里呼び名もこの棘の鋭さに因んだものである。伊豆半島の山里ではふつうサルトリイバラと呼ばれている。

         さるとりの若き芽生ひのひたぶるになよめくものを刺たちけり      釈 迢空

         釈迢空の見たこの"さるとり"はジャケツイバラか、それともユリ科のサルトリイバラか、どちらだったのだろう。


COXコミュニティセンター森林の滝CA

May 26、 2010: ウラシマソウ Arisaema urashima Hara
 浦島草けむりのごとき糸を垂れ   日美井雪

 八坂神社の裏手の藪にウラシマソウがひっそりと咲いていた。

 何時、何処の誰が、この細長く撓った鞭のような付属体に浦島太郎の釣竿と釣糸を連想して、この謂いえて妙なる名を付けたのだろうか。文政7年(1824)に出版された『武江産物誌』に、道灌山に生えている虎掌なるものに'うらしまさう'とルビが振ってあるので、江戸時代以前の命名だということはわかる。だが、浦島伝説そのものは古く、8世紀になったといわれる『丹後国風土記』にはその原型がすでに語られているから、そのころからこの名があった可能性もある。
 ウラシマソウは北海道から九州にかけて分布する日本特産のテンナンショウ属の1種だが、元禄12年版の『草花絵前集』では 天南星の名を当て、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』では虎草と呼んでいる。虎草という名は唐の蘇敬の『新修本草』に見られ、この本草書を解説した平安時代の『本草和名』には、その和名はオオホソビ(於々保曾美)だとある。
 ウラシマソウを含むテンナンショウ属はコンニャクやカラスビシャクなどに近縁で、北半球のアフリカからユーラシア、北アメリカにかけて170種ほどが記載されているが、その約25%は日本に分布している。球茎(いわゆる芋)には多量のデンプンがあるが蓚酸やアルカロイドも含まれ、いわゆる毒草である。
 テンナンショウの仲間がいつの時代から日本人の生活とかかわってきたのかは定かではないが、『本草和名』の記述や鎌倉時代の『馬医絵巻』に天衣草の名で描かれているところを見る と、かなり古くから薬草として認知されていたようだ。
 いかにも毒々しい外見であるから、よほどのことがないかぎり食欲をそそる代物ではないが、照葉樹林文化圏説で知られる中尾佐助は、'イモ食文化'をもっていた縄文時代の人々は食糧として利用していただろうと推論している。

 食糧にしたという古代の記録は知られていないものの、江戸末期の『八丈実記』に、アザミ、ワラビ、ヘンゴなどが「八丈ニテハ飢年ニハ上食の菜蔬ナリ」としるされていて、ヘンゴすなわちシマテンナンショウ(A. nrgishii Makino) が救荒食となっていたことがわかる。
 この記録に興味をひかれ、八丈島でヘンゴがどのように食べられていたかを調べたのは、植物文化史研究家の関葉子である。彼女によるとシマテンナンショウの球茎(ヘンゴ玉)から作られる餅は現在でも食べられていて、'玉'の皮を厚めにむき、茹でて、臼で搗いて食べるという。杵とりには水ではなく椿油などを使うとえぐ味がおさえられるそうだ。
 縄文時代の人々も、こんな食べ方をしたのだろうか。それとも、ハワイなどの島々でおこなわれるポイ料理のように、醗酵過程を入れてえぐ味を抜いたり、アイヌの人々がエゾテンナンショウ(A. amurense Maxim.) を調理したように、炉の熱い灰の中で焼いたのだろうか。

 
 21日の朝日新聞の1面に"「人工生命」ほぼ完成、ゲノム合成し細菌作る"という見出しで、『サイエンス電子版』にJ. Craig Venterの研究チームが自己増殖する人工細胞作成に成功したという論文が載った、という記事があった。
 見出しだけ読むと、ついに試験管の中で生命が誕生したと早とちりしそうだが、そんなすごいことではなく、単に細菌のクローン作りに成功したというに過ぎないようだ。もっとも、合成(コピー)したゲノムを使った点は画期的ではあろう。
 現時点ではゲノムを合成はできても、複雑な小器官から構成される細胞質を人工的に作ることはできない。これができて初めて人工生命(人造生物)といえる。
 ちなみに、人工生命(Artificial life = Alife)という言葉はコンピューター上で自己増殖できるソフトAlife、ロボットなどのハードAlife、生化学的人工細胞などのウエットAlifeの総称として使われている。
 ソフトやハードのAlifeはすでに作られていて、ウエットAlifeとは本質的に異なるものである。


 総理はお叱りは甘んじて受けると開き直り、普天間移設問題はどうやら平凡で停滞的な結末へ向かいつつあるようだが、沖縄県民に加えて大和人の拒否反応が強まれば、国外移転となるかもしれない。米軍が日本から出て行ったとしても、直ちにアジアの近隣国との間に武力衝突が発生するとは私には思えないが、社民党やマスメディアはそんなケースのシュミレーションをしているのだろうか。


 福島第一原発は益々混沌としてきたようだ。汚染水貯槽の水位が入れても入れても下がるので「漏れている可能性がある」と東電は言っているが、漏れているに決まってるではないか。ことほど左様だ。報道ではセシウム137の心配だけか喧伝されているが、半減期が100万年もあって、蛹に照射すると不稔オスが生まれるというセシウム135も飛散しているはずだ。長期にわたる生態系の崩壊につながるのではないか。


May 27、 2009: カラスビシャク Pinellia ternata
   からすびしゃく青き苞立てり震えつゝ
             苞より吐ける舌さへ青し      植松寿樹

 数年前から、この季節になると我が家の庭でも、カラスビシャクのなよりとした緑色の仏炎苞を目にすることができるようになった。どうやら、花壇の縁取りにするために花師匠に分けてもらったジャノヒゲの株に、球茎がまぎれ込んでいたようだ。ジャノヒゲよりこちらの方が季節感を味あわせてくれる野草で、私にとっては思わぬ贈り物であった。
 日本列島のいたるところの畑地や路傍で目にすることができるサトイモ科の多年草だが、繁殖力が強く、農作業をする人たちには困りもの一つであった。
 韓国や中国にも広く分布していて、漢名は半夏(ban-xia)、韓国では漢名をハングル読みしてba n-haと呼んでいる。半夏は古代から薬用植物として知られ、球茎の皮を剥いて乾燥させたものを使う。吐き気止め、咳止め、痰切り、脚気の治療などに処方されるという。
 半月蓮、三歩跳、地八豆という別名の他は、隣国でのこの草の里呼び名についての知識はないが、日本にはいろいろと面白い呼称がある。とりわけ動物の名を冠したものが多い。カラスビシャクに始まってカラスがつくものが多く、『日本植物方言集成』には16の名が挙がっている。スズメ、キツネなども多く、ヘビ、トンビが付くものもある。
 遠州の一部では"ヘノヘ"という里呼び名が収録されているが、さてはてこれは何に因んだものだろう。微妙に湾曲している花茎が平仮名の'へのへ'と読めるというのだろうか。

 北朝鮮が核実験をしミ� ��イルを発射したというので"勇ましい"防衛大綱の提言が自民党から出されるようだが、同レベルで競り合うのは悲劇だ。



May 29、 2011: ホオズキ Physalis alkekengi L. var. franchetii (Masters) Hort.
   大粒の雨ふりいでて土香立つ
          庭におつるはほほづきの花   岡 麓

 台風20号は九州と四国を暴風圏に巻き込んで太平洋上を北上しているが、その先触れのような雨がここ遠州にも降っている。
 その雨に打たれて、ドクダミの白い小花にまぎれるように、二つ三つと葉陰に隠れてホオズキの白い花も咲いている。
 中国全土に広く分布していて、日本では野生のものも見られるものの、ほとんどは庭園に栽培されているため、薬用に移入された史前帰化植物とみる説が有力なナス科の多年草で、『古事記』に始まり『枕草子』『源氏物語』など多くの古典や江戸時代から現代に亘るさまざまな典籍ににその名の見える、日本人には馴染み深い植物の一つである。
 ホオズキ属には70種� ��上が知られていて旧世界に広く分布しているが、その多くは北米大陸で記載されていて、先住民にとって有用な種が多い。

 例えばアパッチやチェロキー族はヘデリフォリア・ホウズキの実を食用し、イロコイ族はヘテロフィラ・ホウズキの干した葉と根茎の煎じ汁を火傷の治療に、ダコタ族はランケオラータ・ホウズキの芽生えや若葉を茹でて肉料理に添えて食べる。
 ちなみに、観賞目的で持ち込まれたアジア生まれのホオズキはウイスコンシン州など北米東部に帰化している。
 
                          ほほづきの花のひそかに逢ひにけり    安住 敦

May 29、 2012: カモガヤ Dactylis glomerata L.
悲鳴を上げ始めた膝をかばいながら、往還道に続く常緑樹林の中の急坂を下ってくると、視界が開け、カモガヤのぼぼけた花穂が迎えてくれた。
 夏日の陽射しが眩しかった。

 カモガヤはヨーロッパ原産で、今では世界中に帰化している。日本に入ったのは江戸時代末期、文久年間に渡来したとの説もあるが、牧野富太郎は明治時代になってからアメリカ経由で牧草として導入されたと考えていたらしい。
 英語名のCock-footは花穂を構成する開花直前の小穂の配置が鶏の足形に似ているからというが、和名の命名者の松村任三は鶏のそれより鴨のそれに似ていると思ったのだろうか。しかし、この画像のようなぼぼけた花姿から"鳥の足形"を連想するのは至難である。Ochard grassとも呼ぶのは、日陰でも育つ性質を買って果樹園のグラウンドカバーに利用したからだそうだ。
 分類学者の中にはたくさんの亜種あるいは品種に区別する人もいるが、交雑起源の稔性のある4倍体と考えられ、そのために実生の形質が多様なのだろう。
   

 先日から国会事故調査委員会なるもので、昨年3月11日に始まった原発の暴走処理にかかわった政治家と東電社員たちへの公開質問がおこなわれているが、この時期になにをやっているのかなと思ってしまう。メルトダウンしメルトスルーしているかもしれない上に、注いでも注いでも汚染水はだだ漏れ状態で地中に消えていってしまう1~3号機と、濁った水に沈む4号機の使用済み核燃料棒などを何とかしてからにしてほしいものだ。静まり返って草ぐさ に埋もれてゆく飯館村を忘れないでもらいたい。

2005年 ~ 皐月の花      


気がついてみれば早くも皐月は過ぎ水無月となってしまいました。花たちは次々と咲き競ってくれていますが、こ年の5月はパートナーの体調悪化のためのあれやこれやで、写真の残すのが精一杯の日々でした。
何はともあれ、紹介だけはしておきましょう。


<立夏が過ぎて> -1


<立夏が過ぎて> -3 : センダンの花の舞


 皐月の爽やかな風を思い起こさせる花といえば、何をおいてもセンダンではないでしょうか。

      花あふち梢のさやぎしづまらぬ   橋本多佳子

 センダンという名は「千珠」から転訛したというのが通説ですが、昔は「楝」と書き「あふち」と呼ばれていました。その後「樗」と書くようにもなりましたが、これは葉の形がニガキ科のシンジュに似ているために起こった誤認です。江戸時代になると「栴檀」とも書くようになりましたが、これも「栴檀は双葉より芳し」の栴檀(香木のビャクダン)との混同です。
 道幅の狭い日本では街路樹に利用されることは滅多にないようですが、熱帯圏ではしばしば道路に沿って植栽されているのを目にします。
 上の写真は左が5月5日、中央が� ��月12日、右が5月20日に撮影したものです。



 


 

   

 

カキ シブカワツツジ


 天竜浜名湖線の岩水寺駅近くの民家の垣根越しに延びたカキの枝には未だ花が残っていました。この花が終わるころには梅雨が始まることでしょう。カキの枝の隣には、これももう終わりかけたシブカワツツジの花が咲いていました。ジングウツツジの変種で静岡県西部の特産だそうです。名前は最初にこのツツジが認識された渋川温泉に因んだものです。

 なにはともあれ、楽しい花巡りの一日でした。


June 1、 2007:  ヤマホタルブクロ
 蒲公英も野芥子も白き絮を噴き
          一期の旅の風を待ちおり   田原徹夫

 今年もはや水無月である。春の花たちはすっかりその盛りを過ぎ、多くのものはすでに子供たちを手放し、自らは土に還りつつある。
 しかし蒸し暑くなるこの季節を待っていたように咲き始める草もまた多い。ホタルブクロの仲間はそんな草の一つである。
 今日は鹿島神社の麓の茶畑の裾を廻る小道の斜面で、その一つのヤマホタルブクロに出会えた。
 ホタルブクロ(Campanula punctata)は北海道から九州に亘る山野に普通で、中国と韓国にも分布している。毛の多少、花色、花形などに変異が多い種で、東北から近畿地方にかけて見られるヤマホタルブクロ(C. punctata var. hondoensis)は、ガク裂片の間に典型的なホタルブクロにはある反り返る付属体をもたない変種である。
 細かな分類のことは分類学者に任せるとして、それよりもこの花の自家受粉を避け他家受粉を完遂するために構築された巧みな構造には驚かされる。


 花の構造については本多郁夫さんのすばらしいHP 

June 2、 2006:  ヤマゴボウ

 早朝の散歩から戻ってきた家人が、川向こうの藪に珍しい花が咲いていたという。
 こちらもメールの整理やら何やらが一段落したところだったので、さっそく詳しく場所を聞いて入れ替わりに出かけてみた。なるほど近年とんと目にすることのなかった昔懐かしい珍しい花の一つだった。
 市街地や里山でしばしば出合うヨウシュヤマゴボウと似てはいるが、そのだらしなく伸びて下垂する桃色の花穂と違って、すっと直立した長楕円形の大きな白い花穂はまぎれもなくヤマゴボウのそれであった。花穂の先の方はまだ蕾で、薄く桃色に色づいているのは閉じた花びらに包まれているオシベの花粉袋の色が透けているためである。
 昔懐かしいと書いたが、この草は日本土着のものではなく、江戸時代以前に食用と薬� ��をかねて中国から移入されたもので、かつてはあちこちで栽培され、その一部が逸出し野生化していた。しかし今では栽培する人もなくなり、なかなかお目にかかれない存在となってしまった。
 漢方ではヤマゴボウの根を"陸商"と呼び、利尿剤として処方している。よく肥大した根を秋に掘り取り、乾燥させ煎服する。日本の民間では肋膜炎や肺炎の治療にも使われた。またよく揉んだ葉を根の煎じた汁で浸したものを幹部に貼ると悪性の腫瘍に効果があるという。しかしこの根には有毒成分のアルカロイドのキナンコトキシンや硝酸カリが含まれるので、素人が安易に扱うのは危険である。
 一方、食用するのは若葉で、茹でてから水にさらしておいて胡麻和えなどにする。私は未だ試したことはないが、ちょっと辛味があ� ��てなかなか美味しいという。太い根も薄切りにして灰汁で煮て、さらに数日水に晒せば食べられると聞いたが、これも試さない方が良い。試されるなら、コンピュータのソフトのように自己責任で、というところだろう。


June 2、 2011: ヤマウルシ Rhus trichocarpa Miq.

 近道をしようとして迷い込んだ、久しく人の通ったことのなさそうな谷道に、花の盛りのヤマウルシの雄株が覆いかぶさるように茂っていた。
 春先の、ベニシダの芽立ちのような色づきをしていた若葉は、葉軸にその赤味を留めるものの、すっかり大きく展開し、その明るい緑色の複葉の笠に守られて、淡い黄色の粟粒ほどの雄花を集めた何本もの花穂が小さな虫たちを集めていた。
 北海道から九州まで、山地に普通に見られ、栽培される中国原産のウルシ同様の漆成分を分泌するが、その量はわずかで代用にはならない。とはいえ、人間に皮膚炎(かぶれ)を起こさせるには充分な量ではある。
 遠州の里人の中には、この木をハゼノキやヌルデと混同している方が少なくないが、姿形が似ているばかりかかぶれ� ��分を含み秋には美しく紅葉する点でも共通しており、無理からぬことである。
 遠州にはハンジという里呼び名もあり、はじめて聞いたときには何に因んだ名なのかと首をかしげたものだが、その後にハンジノキという名の存在を知って、ハゼノキから転じたものと合点した。



June 4、 2006:  ササユリ
  遠州の里山ではいまがササユリの盛りである。むかしからこの辺りではヤマユリ同様にごくありふれた百合だったらしいのだが、何故か少年の日の思い出の中にはむせ返る香りを放つヤマユリは鮮烈なのだが、ササユリは存在していない。夏休みに出会うことの多いヤマユリと違って、ササユリは子供たちの行動半径が狭まる入梅のころに咲くからかもしれない。

    かりそめに早百合生けたり谷の房   蕪村

 蕪村の生けた早百合がササユリ(笹百合)であったという証拠などどこにもないのだが、私は勝手にそれに違いないと決め込んでいる。ノイバラに執着の深い蕪村が目に止め心に留める百合といえばこのササユリを置いて他にはないと思うのだ。
 チュンベリーが Lilium japonicum という学名をササユリに与えたのも、静かな日本の自然の具象のような優しい面持ちを、この百合に見たからではないだろうか。
 静に夜も更けたいま、本家の裏山から手折ってきた一もとのササユリが書斎の片隅で甘く香っている。


June 5、 2005: ノイバラ
 今日は陰暦4月29日、芒種である。
稲や麦などの芒(のぎ)のある穀類を播種する目安とされた日だ。しかし品種改良と温暖化現象があいまって、この辺りの水田では既に背丈の伸びた若稲が初夏の風になびいている。
 しかし野生の者たちは、温暖化に反応はしているものの、ほとんど昔ながらの花暦の沿って咲いては散っている。
 植物たちの生活のリズムには、また動物たちのライフサイクルも同調する。たとえば、腐草為蛍(ふそうほたるとなる)といわれたようにホタルが飛び交い始めるのもこの頃からである。
 そのホタルを見ることができる場所が菊川の源流に近い倉沢にあると聞いて、下見がてらでかけてみた。
 牧の原台地の西斜面にあたる場所だが、美しい棚田には保存会の方々によって植え込� �れた稲苗が元気よく育ち、どこからかホトトギスの声が渡って来た。そして、水田を挟む丘の斜面には、もうその盛りは過ぎてはいたが、ノイバラが咲いていた。

   路たへて香にせまり咲くいばらかな    与謝蕪村



June 6、 2009: チガヤ ー2


 家人の帯状疱疹の腫れや痛みはほとんど治まったが、内耳の神経に麻痺が残っていて平衡感覚が不安定で、いささか心配ではである。2週間の間隔を置いて診察を受けに出かけた病院へ彼女を迎えに行く途中の川土手一面に、白いチガヤの穂が折からの青嵐に吹かれ靡いていた。

         浅茅原つばらつばらにもの思へば故りにし郷し思ほゆるかも      大伴旅人 (3-333)

 同じように花の終わったあとの姿ではあるが、チガヤのそれには晩秋のススキの白い波のような寂しさはなく、なにやら柔らかな母親の頬の感触を思わせる。それは離れて思う故郷の優しさではないだろうか。そしてこれは、古来、日本という島国の自然に育って始めて覚える感覚かもしれない。
 人は生ま れ育った自然の一部であり自然そのものなのだろう。だからこそ、その自然と共感できるのだろう。
 
          しらじらと茅花ほけ立つ草野原夕日あかるく風わたるなり       古泉千樫

 スダジイやクスノキの花も終わり、里山の緑は日ごとに深まり、今通り過ぎた風にはどこからか運ばれてきたクリの花の香りがした。
 自然だけに思いを寄せていれば、なべてこの世はこともなく幸せな日々なのだが、人の世は多事多難である。
 TVの映像や新聞の紙面で北朝鮮の現状を見ると、第2次世界大戦に突入する直前の日本やナチの一糸乱れぬ大衆行動が想起される。日本のマスコミや一部の人々のややヒステリックな反応も気になる。ノドンが一発東京に落ちたら、さて日本政府や国連はどんな行� �を起こすのだろう。まさか真珠湾攻撃後のあの世界の愚が繰り返されるとは思いたくないが・・・・。


June 6、 2011:  ヤマザクラ  Prunus jamazakura Sieb. ex Koidz.
 桜の実の匂へる午後の木下道
     われはとほりぬ曇空ひくく  佐藤佐太郎

 梅雨の晴れ間、戦前から手付かずのまま残されたらしい雑木の杜の、沢沿いの小道を辿った。
暗い沢の底から立ち上がっているヤマザクラの、木漏れ日を浴びて枝垂れかかっている枝には、点々と赤い桜ん坊が光っていた。
 ところが帰宅して画像を整理してみると、ミヤマザクラやマメザクラのように、花柄に小さいものの托葉が残っている。しかし、葉や樹皮の特徴はヤマザクラのそれである。来年の花時に確かめる必要がありそうだ。


率直なダービーポストフォールズアイダホ

 代議士たちは相変わらずの体たらくで、なんともしがたいが、青森県では自公民推薦の現職知事が大差で再選された。原発については安全第一というものの様子見だという。結局は、福島に懲りずに、御用学者と政治家と電力会社の絶対安全説を信じたふりをして県民の生活向上のためといいつつ原発を新設・再稼働させるのであろうか。


June 7、 2008:  イヌツゲ Ilex crenata

 ご近所の生垣のイヌツゲが花の盛りだった。あまりに細かな花なので手元に寄せようと枝を引くと、ほろりと零れた。

   犬黄楊の低くむらがり生ひにける
          沢にぬれつつ苔をあつむる   鹿児島寿蔵

 詩歌の世界では犬黄楊と書くモチノキ科のイヌツゲ(Ilex crenata)は岩手県以南、四国、九州、韓国南部に分布する雌雄異株の常緑低木で、写真は雄株である。
 産地の日当たりの良い環境を好むものが多く、鹿児島寿蔵の詠んでいるイヌツゲは滝の傍のよく日のあたる崖にでも生えていたのだろうか。
 植木屋さんたちはツゲと呼びツゲ科のツゲ(Buxus microphylla var. japonica) はホンツゲとして区別しているが、素人には花の咲いている枝でも比べない限り識別は困難だろう。したがってこの木がツゲ、またはヒメツゲだと思っている人が少なくないようだ。


June 8、 2005:  テイカカズラ
   歌人の定家葛といふ名すら
            時代移りし花の咲くかな     岡 麓

 近くの神社の境内に入ると甘い香りが流れてきた。
 拝殿の横の歳経た椎の木に覆いかぶさるように茂ったテイカカズラの白い花の香であった。
 北海道をのぞく各地に分布しているキョウチクトウ科のつる植物で、盆栽に仕立てられることもある。名の由来については諸説があるようだが、主流は室町時代の金春禅竹作といわれる謡曲の『定家』起源説で、「式子内親王程なく空しくなり給いひしに、定家の執心葛となって、おん墓に這ひ纏ひて互いの苦しみ離れやらず」と謡われる葛がこれであるという。「庭下に生える葛」説よりロマンがって楽しい。
 式子内親王は後白河天皇の第三皇女で『新古今和歌集』をは� �め多くの歌集にその短歌が収録されている鎌倉初期の女流家人であり。定家はいわずと知れた藤原定家である。

 秋になると葉が美しく紅葉するが、春が来れば再び緑に還る。




June 9、 2011: オオバヤシャブシ Alnus sieboldiana Matumura
  道のへのヤシヤの莟は青黝し
     指につぶし見てわが憩ひおり  島木赤彦

 西方川の右岸に迫る丘陵の裾に切り開かれている小道を行くと、崖から垂れ下がったオオバヤシャブシの枝先に、触ればちょっと痛そうな緑の果穂が乗っていた。
 葉の鋸歯が細かくて果穂(雌花序)が雄花の穂(雄花序)より下に付くヤシャブシとよく似ていて葉のサイズがやや大きいからオオバヤシャブシというのだが、このあたりではどちらもオオバミネバリとかヤシャノキと呼んでいる。
 分布域は屋久島が南限のヤシャブシより狭く、福島県から和歌山県までの太平洋側で、海岸に近い山地に多い。
 ヤシャブシと同程度のタンニン含量があって"ふし"に代用されたかは定かではないが、フランキア菌などが根の細胞間� ��に入り込んで共生している外生菌根があり、土壌栄養に乏しい環境でも生育できる点は同じである。
 そのため、地震や風水害で崩落した山の斜面の保持・修復のために植栽されることも多い。

 
 福島第一原発はメルトダウンして3ヶ月が過ぎたものの、放射性物質の垂れ流し状態はいっこうに治まらない。この惨状とその人類に対する危険性に敏感に反応したドイツは脱原発を決定したが、当の日本政府は原発を止めるとはこの期に及んでもいわない。β線・γ線を放つセシウム137で茶葉を汚染された茶農家の反原発の声は小さい。国民の声もかき消えそうだ。

            花咲きて愛でる人なく畑ありて種蒔く人なし沈黙の春         北澤早緒理
            刈り捨てる生茶の匂い嗅ぎながら農の人嘆く原発汚染        喜多 功
            いつ摘みし草かと子等に問われたり蓬だんごを作りて待てば     野田珠子
            「原発に馬も豚っこも牛も皆殺られちまっただどうしよもねべ」     寺崎 尚


June 10、 2005:  モチノキ

 遠州灘の沖はるかを北上してきた台風4号が、間もなく八丈島の南を通り抜け房総半島をかすめるらしい。
 その余波で、この辺りは朝から風が強く、木々は大きく揺らいでいるものの、ときどき青空がのぞく。その晴れ間を狙って、近くのお寺さんの境内で、花の盛りのモチノキを撮った。
 宮城県から琉球諸島と韓国南部や中国の舟山列島などの暖地に生える高木で、雌雄異株である。写真は雌株の花である。
 最近の少年たちにはとんと縁のない木であるが、私が小学生の頃は「黐」という字を読んだりましてや書いたり出来なくても当然という顔が出来たのだが、モチノキを知らなければ恥かきものであった。モチノキは、当時は禁止などされていなかったメジロなどの小鳥を捕るための「鳥もち」の原料として 大いに利用されていたのである。
 梅雨に入る頃、青味を帯びた花の香りを利きながら厚みのある樹皮をはがし束ねて水につけておき、秋になって醗酵が進んだ頃に水切りして石の上で叩き潰すうちに粘度の高い「鳥もち」がとれた。
 
ドラエモンの秘密兵器、影を捕らえることの出来る「かげとりもち」は、私たちの「鳥もち」が進化したものだろう。


June 10、 2010: サラサウツギ
              Deutzia crenata Sieb. et Zucc. f. plena (Maxim.) C.K. Schn.
 今朝はほのかに色づいた優しく柔らかな乳飲み子の肌を思わせるような美しい花に出合えた。

 八重咲きのウツギの一つ、サラサウツギ(更紗空木)である。純白の八重咲きもあって、こちらはシロバナヤエウツギと呼ばれている。

 手元にある図鑑や園芸書には、どちらも古くから栽培されているとはあるが、いつごろ何処で栽培され始めたのかは記されていない。『大和本草』や『重修本草綱目』にも八重咲きのものがあると記されているので江戸時代よりその歴史は古いのだろう。

 それにしても、なんというたおやかさだろう。そして、一見して、和の風土に育ったものと感じさせる容姿である。私はすっかり魅了されてしまった。花は早朝の冷気の中でもかすかに香っていた。



June 12、 2007: ハマニガナ

  浜にがな浜地しばりの黄が匐ひて
            ぬれゆく砂に雨が漾ふ  生方たつゑ

 私はハマニガナの花にであうたびに、今は亡き生方たつゑのこの句を初めて読んだとき、"砂に雨が漾ふ(ただよう)"というのはどんな現象なのだろうかといぶかしく心に残ったことを思い出す。しかし理屈抜きで読めば幻想的な砂丘の世界をかいま見ることができるのかもしれない。
 遠州灘からの"ながし南風"が吹き渡り産卵を終えたアカウミガメが海へ戻っていった足跡のかすかに残る砂浜で、今日この花を目にしたときも、やはり生方のこの不思議な句を思い浮かべていた。
 ハマニガナは典型的な海浜植物で、ベトナムから中国、韓国、日本列島、そしてカムチャッカまでの砂浜に分布して� �る。インド洋に面した海辺でこの植物を見ることはないので、遥かななる太古に、恐らく南シナ海沿岸地域のどこかで生まれ、やがて海流に乗って北上してきたのであろう。 


June 13、 2009: ナツグミ Elaeagnus multiflora

 夏茱萸がいろくれなゐにむらがりて
       生ふるを見れば古へ思ほゆ   斎藤茂吉

 気象庁は9日に東海地方が入梅したと発表したが、一昨日から好天が続いていて、強い日差しを浴びたテイカカズラの風車形の小花もネズミモチの花房も茶色に変わり萎れ始めている。そんな藪影に、つややかな朱色に熟し始めたナツグミの、長い花柄の先に下がった小さな俵のような実が群がっていた。
 日本全土ばかりか韓国と中国にも分布する低木で、初夏には数少ない山の恵みである。アキグミに比べるとやや渋みが舌に残るが、子供の頃には見つけ次第口にしていた記憶がある。
 おそらく古代から里山に住む人々には馴染みの深い植物であったに違いないのだが、なぜか『万葉集』をはじめとする古� �の短歌にはそれと知れるものが詠われていない。しかし平安時代に著された『本草和名』には「久美」の名で登場する。もっともこの「久美」はグミの仲間の総称であろう。


June 14、 2005: オウギカズラ

 霧雨の中、文殊岳へと向かう。下界の眺望は望めないだろうが、それよりも人の気配が絶えた深山の道がうれしい。
 晴れた日に仲間とあれこれ話しながら花を楽しむ山旅にも心ひかれるが、この季節のこんな日和の一人歩きも捨てがたいものだ。
 モンスーンベルト東のはずれに位置する6月の日本列島は、多雨に恵まれ、気温も高まり、木も草も生き生きとしている。その緑の世界の中に一人身を置くと、現代の物質文明に汚染された心が洗われるような気がするのだ。汚染されたと感じているのは、自分が日々取り込んできた情報の無意味さを心のどこかで感じ取っているからであろう。
 そして、その汚染は、もはや洗い落とすことのかなわぬ、脳細胞の死をもってしか消去されえないものと知ってはいるが、� ��思議なことに水無月の緑の世界はそれを意識の底に沈め、命とともに与えられた無垢の感性を浮かび上がらせてくれるのだ。
 それは、杉の古木が茂るほの暗い修験道沿いに広がるオウギカズラの青い花が、密生する葉群の中から何事か訴えるように浮かび上がっている姿にも似ているような気がした。



June 15、 2005: マテバシイ

 公園に植栽されているマテバシイが満開だ。といっても、花びらにあたるものがないので満開という表現はいささかおかしいのかもしれない。だが元気よく突き出したオシベとそこから放たれている虫たちを誘惑する香りは、やはり満開というに相応しいのではないだろうか。
 マテバシイは馬刀葉椎と書く。つまり馬刀(マテ貝)に似た形の大きな葉を持つ椎、という意味である。もっとも私は初めてこの木の名を知ったとき、「明日こそは檜になろう」というアスナロからの連想で「待てば椎になれる」マテバシイだと覚えたような気がする。
 関東地方以西の海岸に近い山野に自生する木だが、元来は南方系のもので九州以南に分布していたものが人手によって広まったものと考えられている。
 愛知県の縄文後� ��の大地遺跡から40個のマテバシイの実が出土していることを見ると、海上の道を北上してきた古代の人々は既にこの木の有用性を十分に理解し利用していたのであろう。
 マテバシイの実(ドングリ)は大きく苦味もないので、粉に挽いて少し味付けすれば結構食べられる。


June 16、 2006:  コモチマンネングサ

  地球上には60億人を超す人間がいて、今年だけでも日々100万の誕生との95万余の死が予測されることを考えてみれば取り立てて異例なことではないのかも知れないが、それにしてもこのところ、戦の最中でもないこの町で、身近で死ぬ老人の数が多い。Aさんも、Bさんも、そして昨日まで元気で小学生の下校時を見守っていたCさんも、突然他界された。
 政治家と中央の役人は、年金生活者のための税収を確保したいが為というが、本気とは思えない"生めよ増やせよ政策"を策定しようとしている。しかし、少なくとも老人にかかる費用は、無用な延命治療を見直せば、間もなく激減していくことであろう。繁殖能力を失い、生への期待も失せた生き物はなべて急速に平穏な死に向かうというのが20世紀の生命� ��学が証明したところである。
 今朝、Cさんの棺を合掌して見送った、その庭の石垣には、小さいけれども明るい顔をしたコモチマンネングサが咲いていた。万年草との名ではあるが、梅雨の最中に気温が上がれば、力なく伸びて間もなく朽ち果てる。とはいえ、無数の無性芽がこぼれて命は紡がれる。自然には無理がない。

June 17、 2009: アジサイ Hydrangea macrophylla 

 木の下の風はしめりて吹くからに
         紫ふかしあぢさゐの花   松村英一

 昨夜は小気味よいほどの雷雨だった。シャッターを打つ雨粒の音がまるで小石が投げつけられているように激しかった。
 夜が明けると雨はすっかり上がっていたが、心配したとおり、花壇ではペチュニアの柔らかな花びらが重い雨粒に貫かれ切り裂かれて哀れな姿となっていた。
 しかし風はさほど強くはなかったようで、庭の木々はいつもと変らぬ佇まいのように見え、アジサイは雨の雫をとどめて心地よげであった。

  千葉市では31歳の若者が市長の座に就いた。かつてのあの保守色の強かった千葉市に住んだ身としては嬉しい変化である。日本の政治が変りつつあるのだと思いたい。静岡県知事の� ��挙が間もなくだが、こちらのほうは候補者たちに誠実さが感じられないのが残念である。


June 17、 2005:  ハナミョウガ

 巷ではクールビズなどという聞きなれない言葉が政府の音頭とりで流行っている。空調の温度を28℃に留めたオフィスで働くビジネスマンが暑さを忘れて快適に過ごすために考案されたウエアのことらしい。その目的はいうまでもなく発電によって発生するCO2量の削減である。計算上は室温28℃にすれば27℃を維持する際に発生するCO2の0.3%が削減されることになるという。焼け石に水ではないかという見方もあろうが、やらないよりはましであろう。とはいえ、人類が今のように大量の化石燃料を使う生活を続ける限り大気中のCO2の増加は止まないであろう。化石燃料を使い切るか代替エネルギーにきっぱりと切り替えられたとき、初めて18世紀並の排出量に戻るのであろう。さて、そこまで人� ��は存続できるのだろうか?
 戦国時代の城跡の残る台地に刻まれた谷間の小道を、こんな愚考を巡らせながら歩いていると、開花する直前の赤い蕾を連ねたハナミョウガの群落に出会った。ふと、半世紀以上も前のことだが、この草の名とその実が伊豆縮砂という胃薬になることを教えてくれた物知りだった亡き叔父のことを思い浮かべた。
 CO2問題など思いもよらない時代であった。


 その一つが放射能なるものである。
 人間たちの作り出した放射性物質の漂う世界に世代を重ねるうちに、いち早く危険を察知できる、ガイガーカウンターのような感覚器をそなえた生き物が出現するのだろうか。それとも、その前にホモ・サピエンスのDNAは崩壊してしまうのだろうか。

June 18、 2008:  マサキ Euonymus japonica
 梅雨曇の下の岬の森は"まじ"の風にときおり大きく揺らぎ、濃い緑の常磐木の葉がひるがえった。その森の小道に沿って幾株ものマサキ(Euonymus japonica)が茂り、細かな白い花が咲いていた。
 中国や韓国にもあるが、日本では渡島半島以南に分布していて、海岸やその近くの山地に多いニシキギ科の低木である。
 常緑で光沢のある葉も美しいので昔から生垣として利用されているが、詩歌の世界ではほとんど無視されている感がある。よく見れば花も赤く熟した実もなかなか風情があると思うのだが、ユウマダラエダシャク(Abraxas miranda miranda)などの幼虫が多量に発生することがあるので嫌われるのだろうか。
 新古今集に収録されている源俊頼の「日暮るれば逢ふ人もなしまさき散る峰の嵐の音ばかりして」の"まさき"がマサキだという説もあるようだが、いやこれは"まさきかづら"すなわちテイカカズラだという人が多い。

   厚き葉の柾光れり雨避けて
           山の榎の下に憩へば    間島定義


June 19、 2005:  クリ

 東京は既に見渡す限りの焼け野原となっていた60年前の今夜半から翌未明にかけて、静岡市は123機のB29による絨毯爆撃を受けた。無差別殺戮爆撃である。使われたのは10,000発のM47という焼夷爆弾で、上空300mで花火のように破裂して、それぞれが38個のE46焼夷弾を弾き出して地表を襲った。
 木と紙の家々はあっという間に燃え上がったという。114,000人が被災し、約2000人の死者、5000余人の重傷者が記録されている。
 翌朝わが家の庭にも降灰があった。静岡市の西方約40kmの牧の原台地を越えて降ったのである。イチジクの大きな葉が灰色になっていて、花の盛りだったクリの木の枝先にはうっすらと文字が読み取れるような紙の燃え殻も乗っていた。
 触ると、はらは らと崩れた。
 親たちはラジオ放送でこの空襲を知り、こんな遠方まで灰が降ったからには大変な被害だったに違いないと、ひそひそと語り合っていた。
 この秋、このクリが実る頃には、既に日本は敗戦を迎えていたのである。


June 20、 2009: サンゴジュ Viburnum odoratissimum var. awakubi

    花さんご青葉の闇の道しるべ      静

 木下闇が日ごとに濃くなる森の小道を行くと、谷向こうの茂みを郭公の声が渡って行った。
 湿った葉の匂いに混じってかすかに涼やかな香りが漂っていた。振り仰ぐと、葉叢の闇から浮かび上がってきた泡粒のような、サンゴジュの白い花が咲いていた。
 秋に黒熟する前の真っ赤な実のようすが珊瑚細工を連想させることに因んだ名だが、白い小花を支える花茎も珊瑚色である。

 今日はすごい言葉を知った。
 "生と同時に 死を生みおとしたことに気付かないで からになった母体は 満足げに離別を見る"
 詩人、塔和子の「領土」の冒頭である。この歳に至るまで私は'死が生み落とされる'という発想をしたことがなかった。確か� �生と死は一塊の存在であった。生物は死をも生み落としているのであった。


June 20、 2010: カワラナデシコ
               Dianthus superbus L. var. longicalycinus (Maxim.) William

    山かごに乗りておりくる少女子が
        てにとりもたる撫子の花   佐佐木信綱

 里山ではついこの間まで青く香っていたネズミモチの花が緑の茂みの中に消え、クリの花も黄ばみ始めている。そして我が家の庭では夏至を目前にして、早くもカワラナデシコ(Dianthus superbus L. var. longicalycinus (Maxim.) Williams) が咲いている。

    野辺みれば瞿麦の花咲にけり
        わがまつ秋は近づくらしも   西行法師

 この西行の短歌のように昔から撫子(瞿麦)といえば秋の気配を人々に告げる花の一つであったが、近年の気候変動のせいで花期が早まっているのだろうか。それとも、宝暦5年(1755)に橘保国の著した『絵本野山草』にあるように「・・・・、数百種あり、筆につくしがたく、・・・・」というほど花色にも花形にもさまざまな品種が作出されているので、花期についての記述はないものの、画像の撫子はその内の一つかもしれない。


June 21、 2011: ヒメジョオン Erigeron annuus (L.) Pers.
 巫女がいふ雨降り草や姫女苑    星野麥丘人

 今朝も小ぬか雨が降っていた。
 爽やかな皐月の風にそよいでいたハルシオンの花がいつのまにか消え、飽くことを知らぬように細い雨が降り続く水無月になると、空き地や道端の草むらには入れ替わるように白く小さなヒメジョオンの花が咲き始める。
 よく知られるように幕末から明治維新にかけてのころ渡来して、"柳葉姫菊"の名でそれなりに珍重されたというが、瞬く間に全国に分布を広げ雑草として見向きもされなくなったらしい。
 原産地は北米で、USDA plants profile によると現在はアイゾナ州やネバダ州などの乾燥地とワイオミング州などの温帯ステップ地を除くすべての州に分布している。
 日本に最初に入ってきたヒメジョオンが何処から来たのか、今となっては知るよしもないが、黒船とともに無融合生殖をするこの草の種がやってきたのかもしれない。

 オフェリアの抱く姫女苑野外劇    伊藤いと子



June 22、 2005: オッタチカタバミ
 今日は夏至、そして快晴。
 除草を思い立ってリコリス園に屈むと、昨夜の雨をたっぷりと吸収している大地から湧き上がる湿気と夏至の太陽の熱気とで、たちまち汗腺が開く。
 以前は人任せだった除草作業も、始めてみると除草対象の草たちからいろいろと教えられることが多い。植物生態学者や園芸家そして農家の方々にとっては「そんなことも知らなかったの!」というようなことに違いないのだが、私にとっては初めて聞く講義のように楽しみである。
 例えば、春草のカラスノエンドウやホトケノザたちだ。放っておけばなよなよとしたリコリスの葉など覆い隠されてしまうほどに茂るので引き抜いては捨てていた。だが抜き忘れたとしても、彼らは梅雨が始まる頃になるといつの間にか消えてしまうのだ 。そしてリコリスの生育にも害があるようには見えない。ならば、無精者と思われようと、来年は放置してみようかとも思う。
 ところが多年草のカタバミは少しようすが違う。匍匐茎を四方八方へ伸ばし、地表に目の細かな網をかけたようになる。これではリコリスの

花茎の伸展を妨げるのではないかと思い、今まではこの網の引き剥がしに精を出してきた。だが今年は試しに放置した区画を作ってみようと思っている。結果がよければ楽が出来るのだ。
 一方、同じカタバミ属に北アメリカ原産の帰化植物でオッタチカタバミと名づけられたものがある。これは1965年に京都で発見され、茎が立ち上がることから京都大学の村田源先生からこの和名をもらった。こちらは在来のカタバミと違って匍匐茎を密に張り巡らすことはないので、さほど厄介な存在ではない。
 ともあれ、いまさらながらではあるが、博物学者アガシの"Study Nature, not Books"という警句が思い起こされる日々である。


June 22、 2005:  八重咲きのドクダミ

   梅雨ふりてしめりがちなる草むらに
              毒だみの花ま白なるかも   高田浪吉
 竹やぶに挟まれた細道の両側は暗緑色の葉むらの上に白い十字の花を乗せたドクダミで覆い尽くされていた。
   色硝子暮れてなまめく町の湯の
              窓の下なるどくだみの花    北原白秋
 ほの暗い梅雨空の下で見るドクダミにはなぜか心を疼かせるような風情がある。遠く過ぎ去ったはずの日を生々しく思い起こさせる何ものかもある。
 幾千幾万となく咲こうとも実をつけることのない、それでいて絶えることのないこの草の旺盛な生きざまを思いつつ、ふと気づくとこの奇妙な八重の花が足元に咲いていた。
 花が葉の化身であるとはつとにゲーテが� �破したことではあるが、ドクダミの花のつくりの乱れは、まさにそれを明かしてくれているのであった。


June 23、 2007: センリョウの花 Flowers of Sarcandra glabra
  気象庁は平年より一週間ほど遅れて東海地方の入梅を宣言したが、その翌日は梅雨が明けたような青空となってしまた。これもペルー沖のラ・ニーニャ現象のせいだろうか。空梅雨だと節水ということになるが、庭の草花への水遣りを止めるわけにもいかず、日差しが厳しくなる分水道料も心配ではある。

 しかし、幸いにして昨夜はかなりの降雨があって、雨の上がった今朝、土はしっとりと湿り、草木はすっかり元気をとりもどしていた。
 強い風のせいで倒れ掛かっていたフェンネルを抱え起こした後、庭の片隅で十日ほど前から新葉を展開させ始めていたセンリョウをのぞいて見た。米粒よりも小さな花が咲いていた。だが、これが花だと思う人は稀かもしれない。
 というのも、メシベに1個のオシベが寄生してい� �だけという花で、被子植物のなかでもこれほどシンプルで省エネの極みのような花は他に見当たらないからである。写真の右上に伸びている花茎の先端を見るとわかると思うのだが、花茎についている薄緑色の壷状のものがメシベ(子房+柱頭)でその横についているクリーム色のものがオシベである。若いオシベは白緑色で2個の花粉袋を認めることができる。
 これほど花粉袋と柱頭が近くにあれば自家受粉が容易に起こりそうだ。蜜腺も見当たらないので受粉には昆虫たちの助けがなくてもよいのかもしれない。
 オーストラリアの1億2000万年ほど前の地層からセンリョウ科のものと考えられる化石が見つかっているので被子植物の進化のごく初期の頃からこの仲間が出現していたことになる。
 2003年に発表 された遺伝子の比較による系統解析ではヒガンバナなどの単子葉植物はセンリョウ科のそれと同じ祖先から進化したことになっている。


June 23、 2009: ネジバナ 文字摺草 Spiranthes sinensis var. amoena
     仏彫る里にもじずり咲きにけり      林 徹

 この季節、雨の上がったばかりの里の道をたどるのは楽しい。
 目に映る花の姿は多くはないが、草むらにはヒメジョオンの白い小花が揺れ、小川の岸辺ではかの芭蕉が西施の艶姿を想った薄桃色の柔々としたネムの花がほどけ始めている。そして、ほのかに甘く香る風の渡ってきたその向こうには、アカメガシワのクリーム色の花穂が雲の去った水色の空を背景にして、ついついと立っていて、整然と並んだ早稲がすでに尺余に育っている水田の、草刈が済んでほどない畔では、ネジバナの花茎が身を捩りながら少しでも天空に近づこうとしていた。
 ネジバナについては、なにとはなくけなげではかなげな印象の花だという人が少なくない。
 しかし、この 小さなランはなかなかタフで、ヨモギやマメグンパイナズナなどのいわゆる雑草の茂る草むらでも、公園の植え込みの片隅でも、子供たちが走り回る芝生のなかでも、何食わぬ顔でこの可愛い花を咲かせることができる。人里になじんだ植物なのであろう。
 もちろんネジバナは人間がこの島国へやってくる遥か以前から山野の日当たりのよい草原や河川の氾濫原などに住み着いていたに違いない。しかし、縄文時代や弥生時代はむろんのこと江戸時代に至るまでの日本人がこの花の存在を認識していたのか否かを記録した典籍は知られていない。だが、江戸時代の初頭にはすでにモジズリの名で呼び、小鉢に植えて観賞していた。
 梅雨のさなか、小鉢の中で螺旋状に巻き上がって咲くその花を、江戸の好事家たちはどんな想いで 観賞していたのだろう。深沢七郎のように「ねじれた穂の淡い色は、ひそかな恋、ひそかな悶え、ひそかな怨み、ひそかなひがみ」だと感じたひともいたのだろうか。



June 25、 2005:  アメリカヤマゴボウ

 今日は各地で記録的な暑さだったようだ。中でも兵庫県豊岡市では最高気温が37℃を上回った。幸いこの辺りでは日陰にいて風が通れば心地よさを覚えるような一日だったが、北半球の気候はドラスティックに変動しているようだ。マスメディアはその原因を大気中の二酸化炭素の増大に持っていく論調が多いが、事態はそれほど単純でもなさそうだ。
 それはともかくとして、気温や降水量のランダムな変化に大騒ぎするのは自らが手を加えて作り上げた環境の中で生きているヒトという家畜のような生き物だけではないだろうか。
 野の草や木や動物たちは天候の変動に合わせ泰然自若と振舞っているように見える。
 藪の中でたくましく育って花咲かせ実を結んでいるアメリカヤマゴボウなどに出会うと、そん� ��思いが強くなる。
 北アメリカが原産地のアメリカヤマゴボウは明治時代になって帰化したと考えられている。日本では毒草扱いされるくらいだが、北米先住民は薬用・食用に利用していて、例えばチェロキー族の人たちは赤黒く熟した実をリューマチ薬とし、芽だちや若葉は茹でて野菜としている。


June 26、 2007: クチナシ Gardenia jasminoides
 みみなしの山のくちなしえてしかな
     思ひの色のしたぞめにせむ   読人不知 (古今集)

 静岡県以西の山地に自生するこの常緑の低木は、その飾り気のない純白の花弁の美しさと甘い香りが好かれ、古代から栽培されてきた。
 果実は黄赤色に色づき冬枯れた庭先に彩をそえる。色の素はカロチノイドの1種のクロセチン(C20H24O)で、布の染色や食紅として奈良時代にはすでに利用されていた。
 
 今年もほどなく梅雨があけるだろう。
 だが今は梅雨の最中。煙るように降る雨の庭先に、この白い花がしっとりと濡れて香っている。
 湿度の高いクチナシの甘い香りは、肉体のタイムスリップを錯覚させる軽く乾いたラベンダーの香りと違って、遠い過去の記憶 を呼び覚ます効果があるのだろう。私はSさんのことを思い出していた。

 初めてSさんに会ったのは、思えばもう40年も昔のことである。長引く梅雨につかの間の青空がのぞいたある日曜日の夕方であった。四十路半ばかと思われる物静かなご婦人であった。
 植物園のクチナシの茂みの近くに置かれた小さなベンチで、目を閉じて花の香りに聞き入っているらしいそのご婦人の足元には漆黒の毛長の大型犬が、ときおり耳をぴくりとさせながら、やはり目を閉じておとなしく伏せていた。
 そのクチナシは変種のコクチナシであった。当時の私のスライドストックには未だこの変種の花が収まっていなかったので、早速カメラを向けた。
 私はシャッター音が静かな環境ではかなり大きく響くことを失念していた。パッシャ!という唐突の音に、そのご婦人はふと訝しげに目を開かれた。< br/> 「あ、これはどうも・・・失礼しました」
 ご婦人は優しく微笑まれ、
 「いえ、どうぞお気兼ねなく。それより、クチナシの花がお好きですの」
 「ええ、まあ・・・。・・・良い香りですね。なぜか白い花が好きなんです。自分でもよく分からないのですが・・・・」
 「写真関係のお仕事なさってるんですか?」
 「いえ、そういうわけではありませんが、大学で植物関連の勉強をしているものですから、趣味と実益を兼ねてというところです」
 「そうですの、よろしいですわね」
 そして遠くを見るまなざしで、「主人も好きでしたわ、クチナシの花が・・・・」とつぶやかれた。
 「わたくし、Sと申しますの」
 公園の近くのK町に住んでいて、裏千家の講師として茶道教室を開かれてい� ��とのことであった。
 
 このふとした出会いが縁となり、その後茶会などがあるごとに招かれ、お宅へもいく度かうかがわせていただいた。
 そんなある日、やはり庭先にクチナシの香る日であったが、Sさんはクチナシにまつわる身の上話をなさった。

 彼はアメリカ人としては小柄でした。けむるようなグリーンの瞳でした。私は異性としての彼に惹かれてゆきました。
 
 ウツギが白く咲き、五月雨にツツジの紅がとけ、やがてアジサイが木漏れ日の下で色づき始める頃になると、日曜ごとのデートが待ちきれないような二人になっていました。
 私たちが結婚を誓い合ったあの日、彼はクチナシの花束を抱いてきました。白く清潔な香りでした。カリフォルニアに住む彼の父親が求婚したときも、この花を母親に捧げたとのことでした。
 それはもう、いろいろと障害はありました。私の父母は許してはくれませんでした。でも、その秋、私たちは結婚いたしました。キャンプの教会での、二人だけの静かな誓いの式でした。
 次の� �の5月、息子が生まれました。私たちは幸せでした。あの頃ほど新緑の輝きが美しく見えたことはありません。

 一瞬に過ぎ去ってしまったように思われる夜でした。
 翌朝、初秋の陽の中を主人は歩み去りました。私の腕の中で、小さな私たちの息子は、もう見えなくなってしまった父親に未だあやされているかのように、クックと上機嫌で笑っていました。
 それから数日後、多分9月15日だったと思いますが、アメリカ軍は太平洋域のすべての戦力を投入してインチョン上陸作戦を開始しました。10月の始めには、38度線を突破した国連軍は中国国境に迫っていたようです。[今部隊は鴨緑江(ヤールージャン)の岸辺のトンチュイにいる、息子は元気か]という手紙が届きましたのは11月の始めでした。
 めずらしく早く霜の降りた年でした。
 中国人民志願軍が参戦し、北側の大反撃が始まったらしいという情報が寄せられたのは、巷にジングルベルのメロディが流れはじめた頃でした。軍需景気に沸き返る日本の姿に、同国人とはいえ私は複雑な心境でした。

 あの日は朝から霙まじりの雨が降りしきり、息子はなぜかむずかり続けていました。
 主人の戦死が知らされました。世界が真っ白に変わったように感じました。涙は流れませんでした。あの時の気持ちを言葉で表すのは辛すぎます。

 乳飲み子を抱えた母親が女手一つで生きてゆくのはいつの時代でも容易ではありません。私は米軍属の夫人たちにお茶やお花を教えながらの日々を過ごすようになりました。おかげさまで息子も大きな病にかかることもなくすくすくと成長してゆきました。
 世の中� ��驚くほどの速さでめまぐるしく変わりました。
 半島ではウォーカー第8軍団司令官が戦死し、4月にはマッカーサー国連軍最高司令が解任され、やがて1953年7月27日に休戦協定が調印されました。
 でも、死んだ人たちは帰りません。そして、仏印に、中東に、アフリカに、いつもどこかで戦火が燃え続けてきました。
 息子はこちらの中学校を卒業すると、父親のそして自らの国へ帰りました。彼は「帰る」といいました。私には彼を私の国に留めることはできませんでした。
 どのような道を歩むのが人間にとって正しく幸せなことなのか、今でもそうなのですが、私にはわからないのです。

息子からのあの手紙を受け取ったのはアメリカ軍による北爆が再会されたと報じられた2ヶ月ほど前のことです。サイゴンからでした。アオザイ姿の可愛らしい娘さんと肩を寄せ合って微笑んでいる一葉の写真が同封されていました。娘さんの手にした一輪の小さな白い花が私にはクチナシのように思えました。あちらにもクチナシがあるのでしょうか。20年前の私自身を見ているような、そんな錯覚を覚えました。

 息子はまだ19歳になったばかりです。大学に進学するとばかり思っていました。その彼が、なぜ軍服姿でベトナムにいるのか。信じられない思いでした。
 何が、誰が、彼を戦場に送ったのでしょうか。
 彼は死ぬのでしょうか。砲弾の雨の中で。それとも地雷に触れ、ジャングルの泥土にまみれて。
  でも、誰のために、何のために・・・・・・。生き残った人たちは彼を英雄と讃えるのでしょうが・・・・・。


「いつまで続くのでしょうか」
 また降りはじめた暗い梅雨寒の空を見やり、Sさんはつぶやいていた。


June 26、 2010: ノリウツギ  Hydrangea paniculata Sieb. et Zucc.
  池の底に影さし白きのりうつぎ
      暮れのこるさま心にとどむ  森村浅香

 小野蘭山生誕200年記念シンポジュウムに出席するため久しぶりに訪れた小石川植物園の分類標本園にノリウツギが咲いていた。
 梅雨前線が少し南に下がったのだろう。雲が切れて、暑い日差が日陰のない園圃に注ぎ、花は眩しいほど白く輝いていた。

 江戸時代にはすでに庭園に植栽されていたが、元来は温帯林の低木で、地滑りなどで崩壊した傾斜地などに真っ先に生えてくる所謂パイオニア植物の一つである。とはいえ、この木はパイオニアの名にし負わず、暖地の低山帯に進出していることがあり、暖地性シダのスジヒトツバが見られる掛川市の小笠山でも目にしたことがある。
 静岡県下では富士山麓や天城山地� �多く、和紙の繋ぎ糊に利用したことに因むノリノキやトロノキの名で呼ばれている。


           サビタ咲き山の雲みな走りだす  木村敏男       川音のいきなり近く花サビタ   柴野八洲子

 東北地方からの入植者が北海道で広めたといわれるサビタもまたノリウツギの里呼び名の一つだが、原六朗作曲・大倉芳郎作詞で伊藤久男が歌った、あのロマンチックな『サビタの花』のおかげで、標準和名のノリウツギと聞いてその姿を思い出せなくとも、サビタといえば「ああ、その花なら知っている」という人が年輩者には多い。


June 26、 2011: バイカモ Ranunculus nipponicus (Makino) Nakai

 富士山の伏流水が湧き出す柿田川の透明な流れの中に揺れる、バイカモの緑の糸の束と真っ白な花の美しい映像が、TVで放映されていた。
 以前から是非実物を見たいものと思っていた花なのだが、行動力の乏しさからその機会をつくらないままにしてきた。しかし、暇になるとともに、残された時間のことを思うようになった昨今でもあり、目にしたTV画像にも背を押され、三島の"梅花藻の里"へ足を運んだ。
 思いのほか小さく、寂しげな花であった。

 渡り懸て藻の花のぞく流れ哉      凡兆

 去来とともに編んだ『猿蓑』に自らの詠んだこの句を収めた野沢凡兆が、橋の下の清流に見た藻の花が何であったか、確かなことはわからない。俳諧で言う藻の花は特定の種ではなく、広く水草の花� �ことだという。
 だが私には、凡兆が見た藻の花は、冷たく澄んだ流れにしか咲かぬというバイカモだったような気がしてならない。



June 27、 2009: ハマナデシコ Dianthus japonicus

 御前崎方面へのバス停の、日除けもない小さなベンチの足元の、ブロックとブロックの間のあるかないかというほどの隙間に根を下ろして、海辺から運ばれてきたかもしれないハマナデシコが咲いていた。
 しかし、昔から花壇でも栽培されてきた植物だというので、どこか近くのお宅の庭から逸出した可能性もあろう。それにしてもここは、ハマナデシコの故郷の、潮の風が吹き付ける海崖の岩の割れ目に少しは似た環境なのだろうか。

 そう、生き物は環境次第の存在である。生物が進化(変化)するのは環境が変化を続けるためである。むろん生物の存在で環境が変化する面もある。シルル紀からデボン紀にかけて生物が陸上で生活できるほどの大気中遊離酸素を創ったのはシアノバクテリアと藻類であって、 非生物的な物理化学変化の結果ではなかった。つまり、生物も環境の一要素である。人類も然り。際限もなく増殖を続け、森を焼き化石燃料を使い切ろうとしている人類という生物の跋扈するこの地球はどんな未来を迎えるのであろう。 


June 28、 2005: キキョウ

 さみだれの降る夜わが家にやすらぎて
              眼前にあるを見る桔梗の花       岡 麓
 キキョウは秋の七草の一つというので、なんとなく立秋の頃から咲き始めるような気がしていたのだが、実際は梅雨のさなかに咲くものもあることを知ったのは最近のことである。
 山上憶良の選んだ秋の七草の内の朝貌がキキョウのことだというのが近年の通説である。しかし、キキョウの中国名の桔梗をそのまま日本語読みで"きちこう"と呼んでいたのに、なぜに朝という字を当てて朝貌(あさかほ)としたのか、釈然としない思いも残る。『出雲風土記』などでは桔梗に日本古来の呼び名の"ありのひふき"をあてている。
 語源考に立ち入りたい誘惑は、名は何であれ実態は変わらな� �よ、ということで振り切って、みごとに均整の取れた花を見つめていると、中央の柱のような構造から花粉の大部分をメシベに残して5本のオシベが離れ、やがてメシベの先端が5つに裂けて反り返り無垢の状態の柱頭が現れた。自家受粉を回避しようとするみごとな仕組みであった。




June 30、 2009: ナンキンハゼ Sapium sebiferum


 シンガポールで経験したあのスコールのような雨が通り過ぎると、ひりひりと肌を刺すような日差しが戻ってきて、庭先では昆虫たちの動きが活発になり、葉陰に潜んでいたツマグロヒョウモンが舞い立った。
 6年ほど前に小鳥の落し物から芽生えた木々の一つのナンキンハゼも今や2m以上に育ち、昨年から開花するようになったが、こちらにも虫たちが訪れていた。
 トウダイグサ科の植物はいずれもユニークは構造の花をさかせるが、シラキ属のナンキンハゼの花も変っている。テントウムシが這っている花穂には雄花が咲いているが、花弁を欠き、小さなカマキリの頭を連想させるオシベが飛び出している。フタオビドロバチの停まっている花穂の基部には錨のように反り返った柱頭のある雌花が咲いている� ��こちらにも花弁はない。それにしても、この虫たちはこの花のどこに惹かれてやってきたのだろう。どちらも肉食性のようだから、若芽につくアブラムシや青虫が目当てなのかもしれない。だとしても花粉媒介に一役かっているに違いない。

 もう2週間も前になるが、逸見庸さんの『犬と日常と絞首刑』という朝日新聞への寄稿文を読んだ。それ以来、折に触れて人の生命と死、ことに死刑という刑罰(制度、習慣、政策)について思いを巡らせてきたが、いまだによくわからない。テリトリーを守るための殺しは霊長類の中でも見られるが、人類の集団の中での死刑という多数による個の抹殺はどんな状況でいつ始まったのだろう。戦争にともなう殺人行為はテリトリー争いの延長線上のものであろうが、死刑は次元の異な るものではないだろうか。死刑という制度は「命は命で償え」という哲学とは別の次元で存在する。なにやら一つの文化のようでもある。だが、この文化のようなものを激しく拒否するEU型の死刑廃止を至上とする文化もある。死刑を是とするものも非とするものも、どちらの文化も深刻な矛盾を孕んでいる。


今年も今日で後半へ折り返しです。駿河では夏越の"茅輪くぐり"の神事が行われています。
「野の花便り~初夏~」はここで区切りとし、「野の花便り~盛夏~」に移って、更新を続けていきます。
これからもお読みいただければ幸いです。

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